登入亮介と会った翌朝、美緒はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から入り込む光はまだ弱く、寝室の中には夜の静けさが残っている。枕元のスマートフォンを見ると、午前六時二十分。休日なのだから二度寝しても誰にも怒られないのに、不思議と眠気は戻ってこなかった。
昨日の会話を思い返す。
五年間を全部嘘だったことにしなくていい。
亮介を好きだった自分も、裏切られて傷ついた自分も、どちらかを消す必要はない。
そして、自分は戻らない。
そこまで言葉にできたことで、胸の奥に長く残っていた何かが、少しだけ場所を変えた気がした。
完全に消えたわけではない。
思い出せば、まだ痛い。
けれど以前のように、過去へ引き戻される感覚ではなかった。
美緒はベッドから起き上がり
第36話 結婚してから一か月、私たちは初めてデートをしました 亮介と会った翌朝、美緒はいつもより少し早く目を覚ました。 カーテンの隙間から入り込む光はまだ弱く、寝室の中には夜の静けさが残っている。枕元のスマートフォンを見ると、午前六時二十分。休日なのだから二度寝しても誰にも怒られないのに、不思議と眠気は戻ってこなかった。 昨日の会話を思い返す。 五年間を全部嘘だったことにしなくていい。 亮介を好きだった自分も、裏切られて傷ついた自分も、どちらかを消す必要はない。 そして、自分は戻らない。 そこまで言葉にできたことで、胸の奥に長く残っていた何かが、少しだけ場所を変えた気がした。 完全に消えたわけではない。 思い出せば、まだ痛い。 けれど以前のように、過去へ引き戻される感覚ではなかった。 美緒はベッドから起き上がり、カーディガンを羽織ってリビングへ向かった。 休日の朝だから、蓮司もまだ眠っていると思っていた。 ところがキッチンにはすでに人影があった。「おはようございます」 声をかけると、蓮司が振り返った。「おはようございます。早いですね」「それ、私の台詞です」「目が覚めたので」 コーヒーを淹れていたらしい。 美緒の薄いグレーのマグカップも、すでにカウンターに置かれている。「紅茶じゃないんですね」「朝はコーヒーかと思って」「今日は紅茶の気分です」 言ってから、自分で少し笑う。 以前なら、せっかく用意してくれたのだからコーヒーでいい、と言っていたかもしれない。 蓮司は気を悪くするでもなく、「では淹れます」
第35話 元婚約者に「五年間をなかったことにしたくない」と言われました 亮介から届いたメールを、美緒が最後まで読んだのは翌朝だった。 昨夜は通知画面に表示された冒頭だけを見て、開かなかった。 逃げたかったわけではない。 ただ、夜の静かな部屋で読むには、五年間という時間は少し重すぎた。 朝食を終え、蓮司が仕事へ出る準備をしている間、美緒はダイニングテーブルでスマートフォンを開いた。『一度だけ、話をしたい。仕事の件でも、莉奈の件でもない。五年間のことについて、俺自身がちゃんと話しておきたいことがある。返事を急かすつもりはないし、会いたくないなら断ってくれていい。』 そこまでは、思っていたよりまともだった。 さらに続きがある。『今さら謝れば済むとも思っていない。お前が結婚したことも、もう戻るつもりがないことも分かっているつもりだ。それでも、あの日の俺は自分の言いたいことだけ言って、お前が何を失ったのかを考えなかった。仕事のことも含めて、言い訳をしないで一度話したい。』 美緒は画面を閉じた。 胸の中に残ったのは、怒りだけではなかった。 困惑。 警戒。 それから、ほんの少しの安堵。 少なくとも、「神代と別れろ」とか「莉奈との結婚をやめる」とか、そういう内容ではない。「難しい顔ですね」 蓮司の声で顔を上げる。 玄関へ向かうところだった彼が、ネクタイを整えながらこちらを見ている。「亮介からメールが来ました」 美緒は隠さなかった。 蓮司の表情が、わずかに固くなる。「そうですか」「聞きます?」「美緒さんが話したいなら」「一度だけ会って、五年間のことを話したいって」
第34話 私が作った仕組みではなく、現場のみんなの成果だと言えました 改善試行を始めてから一か月。 その最終報告会の朝、美緒は出勤してすぐ、分析チームの共有フォルダを開いた。 画面に並んでいる数字は、始めた頃とはずいぶん違って見える。 教育担当者の時間外勤務。 休日時の個人連絡件数。 新人の再対応件数。 教育期間中の質問件数。 安全・金銭・重大な顧客対応に関する確認件数。 そして、新人側の「質問しやすさ」と教育担当者側の「負担感」。 一か月前、美緒たちは教育担当者を楽にすれば問題の大半は解決すると思っていた。 結果は、そんなに単純ではなかった。 最初の試行は三日でつまずいた。 仕事を減らしたつもりが別のスタッフへ負担を移した。 記録を整えたつもりで、書類仕事を増やした。 教育担当を守ろうとして、新人が質問を控えるようになった。 そのたびに現場へ戻り、聞き、直した。 だから、今の仕組みは最初の案とはかなり違う。「神代さん」 背後から声をかけられ、美緒は振り返った。 相沢が紙コップのコーヒーを片手に立っている。「もう見てるんですか」「落ち着かなくて」「昨日の時点で数字はほとんど出てたでしょう」「確定版を見るまでは別です」「受験生みたいですね」「相沢さんは平気なの?」「緊張してますよ」「見えない」「見せないので」「ずるい」 相沢は美緒の隣の椅子を引き、画面を覗き込んだ。「残業時間、最初より下がりましたね
第33話 守るために作った仕組みが、新人を黙らせていました 翌朝、分析チームの会議室に入ると、美緒が昨夜送った一文は、すでに画面の中央へ大きく表示されていた。『教育担当者を守ることで、新人が質問を遠慮する構造になっていないか確認したいです。』「自分で書いておいて何ですけど、こうして大画面に出されると恥ずかしいですね」 美緒が席へ着きながら言うと、人事の北川が笑った。「今日の議題なので諦めてください」「もう少し格好いい文章にすればよかった」「十分伝わります」 相沢は手元の中間集計をめくっていた。「でも、これ本当に気になりますね。教育担当側の残業は減ってる。休みの日の連絡も減ってる。それなのに新人側の『すぐ質問できる』って回答だけ、一部で下がってる」 料飲部の大森が顔をしかめる。「うちもです。大幅じゃないけど、下がってます」「宿泊だけじゃないんですね」「宴会はほぼ横ばい」 北川が画面を切り替えた。 修正版の試行を始めてから一週間。 まだ人数も期間も少なく、統計として強いものではない。それでも、いくつかの傾向は見え始めていた。 教育担当者の時間外勤務は減った。 休日中の私的な連絡も大きく減った。 新人の基本業務習得速度も、今のところ悪化していない。 そこだけ見れば順調だった。 ところが匿名の簡易アンケートでは、『質問するタイミングを以前より考えるようになった』『担当者を休ませるための制度だと聞いているので、細かいことを聞きにくい』『自分で調べてから聞かなければ申し訳ないと思う』 という回答が出ていた。「これ」 美緒は一つ
第32話 妹に「お姉ちゃんに勝ちたかった」と、初めて本音を告げられました 沙耶との夫婦財産契約の打ち合わせから三日後、美緒のスマートフォンに莉奈からメッセージが届いた。『一度、二人で会えない?』 それだけなら、すぐに断る理由はなかった。 けれど、その次に届いた一文を読んで、美緒の指が止まった。『結婚式に来てほしいって頼むためじゃないから』 父から日取りを知らされ、出席しないと伝えてから、莉奈とは必要最低限の連絡しかしていない。 結婚を邪魔するつもりはない。 不幸になってほしいとも思っていない。 それでも、許したわけではなかった。 五年間付き合った恋人と、半年も隠れて関係を持っていた妹。 その事実は、蓮司と結婚したからといって消えない。 仕事が楽しくなったから消えるわけでもない。 時間が経てば、自動的に薄くなるとも限らない。 美緒はしばらく画面を見たあと、返信した。『分かった。ただ、長い時間は難しいから、一時間くらいなら。』 すぐ既読がついた。『それでいい。ありがとう。』 最後の「ありがとう」が、妙に莉奈らしくない気がした。 ◇ 待ち合わせは、美緒の勤務が休みの日の午後にした。 場所はホテルでも、実家近くでもない。 二人ともあまり来たことのない、駅から少し離れたカフェ。 美緒が先に到着し、窓際の席で紅茶を頼んで待っていると、約束の五分前に莉奈が入ってきた。 淡いベージュのニットに、細身の黒いスカート。 以前なら、もっと目を引く服を選んでいた気がする。 それでも莉奈は莉奈だった。 店へ入った瞬間、何人かが自然に
第31話 夫が提示した「離婚時の財産」に、私はすぐ署名できませんでした 美緒が神代家での夕食から数日後、沙耶から連絡が入った。『例の夫婦財産契約、最終案ができました。今度こそ二人とも逃げないでください』 文面だけなら冗談に見えるが、沙耶の場合、半分ほど本気だろう。 結婚して間もない頃、征一郎に勧められて始めた夫婦財産契約の話し合いは、想像以上に時間がかかっていた。 蓮司の資産が複雑だから、というだけではない。 株式。 不動産。 資産管理会社。 信託。 美緒には名前を聞いても仕組みを理解するまで時間がかかるものがいくつもあった。 一方、美緒自身の資産はもっと単純だ。 預貯金。 少額の投資。 これから得る給与。 だからこそ、美緒は最初に思った。 別に難しい契約などいらないのではないか、と。 蓮司のものは蓮司のもの。 自分のものは自分のもの。 共同で使うお金だけ別口座にすればいい。 それで十分だと思っていた。 しかし沙耶は、最初の打ち合わせで真顔になった。「資産が少ない側ほど、簡単に考えない方がいいです」 その意味を、美緒はようやく少しずつ理解し始めていた。 ◇ 土曜の午前十時。 沙耶は分厚いファイルを抱えてレジデンスへやってきた。「お邪魔します」「今日は一人?」「今日はね。最後に確認するだけだから」「独立した弁護士さんの確認は?」「美緒さん側の先生から昨日戻ってきた。修正意見も反映済み」 沙耶







